船越洋平が疑問に思う「不快感」との付き合い方は?詳細をまとめました。

近年「不快感を与えた」という理由で企業や有名人が謝罪に追い込まれることが増えています。謝る側も絶対に悪いとは思っておらず、全く他意はないがあなたが不快に思ったのであればそれは悪かったという謝り方が目立っており、なぜ不快感を感じたのだろうかという議論にもならず、改善にもつながっていないからこそ、いつまでも同じようなニュースが出てきます。

Webマーケティングの会社で働き、のちに独立した船越洋平さんは「不快感」との付き合い方に対して色々と疑問を持っています。当然不快感を与えた側への疑問もありますが、不快感を感じた側にもその疑問は向けられます。不快に感じたからすべてが一掃されるべきなのか、どこまで許容しなければならないのか、仕事にも関わる部分なので船越洋平さんは真剣に考えます。

相手の不快感関係なしにアウトなセクハラ


まず最初に不快感のありなしに関係なくアウトであるセクハラについて考えていきます。実は相手が不快でなければセクハラではないと考えている人がかなり多く、船越洋平さんはその事実にかなり驚かされました。不快に思っていなければセクハラではないと思っているわけですから、のちにセクハラで訴えられた時、自ら加害者であるにもかかわらず、ダマされた!と言わんばかりに被害者を演じる人もかなり多いです。

結論から言えば、セクハラかどうかの基準は、当事者間同士の問題ではなく、一般レベルに見てセクハラかどうかになります。例えば、女性社員のお尻を触るのがコミュニケーションだと考え、1人の女性社員は仕方なくそれを容認していたとします。普通に考えれば100%セクハラであり、不快感を覚える人がほとんどでしょう。ただ1人だけその女性だけが仕方なく容認していただけで、セクハラはなかったと言い張るのは普通に考えれば無理です。

パワハラもそうで、昔ながらに殴って物事を教えていた場合、一般的な感覚から考え、それが暴力だと思われたらそれまでで、ダマされた!と被害者ぶるのはお門違いもいいところです。このように、不快感を与える与えないに関係なく不法行為となるケースがあります。それを分けるのは「明確な基準」です。

不快感の許容度は人それぞれ

不快感を与えたから謝罪をすることに対し、心底謝れていない人がほとんどなのはなぜか。それは不快感に対する許容度が人によって大きく異なるからです。船越洋平さんはWebマーケティングの仕事をしていますが、今でも多くの広告代理店と仕事をし、色々な人に会ってきました。すると、体育会系のノリが酷い人や執着心が強くてとにかく細かい人など色々な人がいて、その人たちの不快感の許容度の違いに驚かされます。

不快感という言葉が辞書にないような人もいますし、ちょっとしたことで不快感を感じて烈火のごとく怒る人もいます。様々な人たちと仕事をし、その人たちが広告などを作り出していくわけですから、世間に不快感を与えるのは当然です。不快感という言葉が辞書にない人が作ったCMは、多くの人が不快に思う可能性があります。それに反発するのは当然であり、その反発に理解できないと広告代理店側が怪訝な気持ちになるのも自然です。不快感という言葉が辞書にないからです。

ユーザー側の中にも不快感の許容度の違いはあります。そんなことでいちいち文句をつけるの?と驚く人もいれば、もっと早い段階で怒るべき話だ!むしろ遅い!と言い出す人もいます。それだけ不快感は人によって様々で、ちょっとしたことで謝罪をしてしまうのは、結果的に機会損失につながるだけで、企業側にとってマイナスになることも考えられます。

不快感は自分で処理してもらうのが平和的

テレビ番組や広告、ネットの動画などで不快感を感じることは多々あります。それが不快だ!と声を挙げた時、必ず出てくるのが「だったら見なければいいじゃないか」という言葉です。「不快であるならばいちいち文句をつけず、見なければいいだろう、見てる時点であなたも同罪」と言いたげな言葉です。船越洋平さんはこの言葉自体は決して間違いではなく、それが平和的解決の1つの要因と考えます。

例えばSNSでも不快なツイート、文章を書く人がいます。この人に、「あなたのそのツイートは不快です」と伝えたとしても、「だったら見なければいいじゃないか、表現の自由だ!」と突っぱねられるのが一般的であり、決して間違っていません。そうなるとその人物をブロックするしかないわけですが、これで十分なのです。自分で不快となる元を断ち切っていけば、不快感から怒りに変わり、声を挙げる労力をムダにせずに済むのです。

それをするべき一番の理由は、日常生活においてミュートやブロックをしたくてもできない存在がいるためです。会社の上司や同僚、学校の先輩後輩、パートナーや兄弟姉妹、人によって様々ですが、この人たちをミュートやブロックにするわけにはいかないので、嫌でも付き合わないといけません。人間は生きていて不快感を感じるのが普通なんですから、不必要な不快感はミュート、ブロック、メディアを見ないといった自衛策で交わしていくのが確実であり、平和的です。

企業側は絶対に甘えてはいけない

ここまで来ると、不快感を感じるのは受け取り側のせいと思う人もいるでしょう。しかし、企業側はこの事実に甘えてはいけないと船越洋平さんは考えます。甘えてしまう状況は、何をやってもいい、何か文句が来れば相手のせいにすればいいという意識を生み出します。これはかなり間違っており、自制心がなければどこまで踏み込んでいいのかすらわからず、ただただ不快なものを作り出し、クオリティにも影響を与えます。

快と不快は表裏一体で、何をすれば不快になりやすいかを認識することは、何をすれば快になりやすいかを理解するのと同じです。これをすればみんなが喜びやすい、こんなことをしちゃうと怒らせちゃうかもしれないというアンテナは企業側、特に広告代理店は持つべきです。自分が面白いものはみんなが面白いという姿勢は当然反感を生み出しますし、万が一それが否定されて他人のせいにするのはお門違いも甚だしいと船越洋平さんは考えます。

受け取り側に不快感の処理をお願いする以上、調子に乗ってなんでもかんでも作っていけばいいわけではなく、自制心がより必要になります。現状、その自制心が働いているとは思えず、むしろ逆ギレのごとく、不快なものをどんどん生み出していく人が多く、不快感を逆手にとってお金を稼ぎ、再生回数を稼ぐ状況にあるのは不健全としか言いようがありません。

まとめ

目立てればそれが正義であるという考えは傲慢でしかありません。一方で自分で解決できそうな不快感の処理は受け取り側がやっていくべきでしょう。お互いがお互いを尊重し、自分でできることを行っていく、たったこれだけのことができていない状況では、不寛容な時代、ギスギスした時代と評されても仕方ないでしょう。船越洋平さんはその部分を肝に銘じ、仕事をこなしています。