
日本では現状臓器移植を希望する人は1万5000人もいると言われています。しかし、実際に臓器移植を受けられる人は年間で400人程度。その間も臓器移植を必要とする人は増えていくため、なかなか減らないのが実情です。
1人でも多く臓器移植ができるよう、啓発活動などを行っているのが日本臓器移植ネットワークです。この日本臓器移植ネットワークは小紫芳夫さんが立ち上げ、大きく成長させた組織となっています。日本臓器移植ネットワークとは何か、小紫芳夫さんの存在などをご紹介していきます。
日本臓器移植ネットワークとはどんな機関か

小紫芳夫さんが長年会長を務めてきた日本臓器移植ネットワークとはどのような機関なのか、改めてご紹介していきます。
日本唯一の臓器移植のあっせん機関
脳死判定が出た場合、もしくは心停止で亡くなったことが確認された場合、自らの臓器を提供するかしないかの意思を示すことができます。臓器提供を行いたい臓器と、移植を求める患者の間を取り持つのが日本臓器移植ネットワークです。
脳死後に臓器移植が行えるようになったのは臓器移植法施行があった1997年から。この1997年に日本臓器移植ネットワークが誕生します。その以前は腎臓移植普及会が母体となっており、腎臓移植の推進を展開してきました。
実際に臓器移植が行われるのは1999年からで、以降20年以上にわたり、脳死による臓器移植が行われます。脳死のケースは最初の10年で1,000例以上ありましたが、そのうち、カードの不備や遺族の不許可など様々な理由もあり、最初の10年で60例ほどしか成立しませんでした。それでも臓器移植のフォーマットができたことに意義があります。
子どもからの臓器提供も増え始める
最初は脳死した全員が対象ではなく、年齢を制限して臓器提供が行われてきましたが、6歳未満であっても脳死になれば臓器提供ができるようになり、2022年9月に23例目の臓器提供が実施されました。
子どもの場合、心臓などに重大な疾患を抱えると日本での治療が難しく、海外に行かなければならない事態が続き、命を救うのに1億円以上かかることも珍しくありませんでした。その都度、募金を行って資金を確保するのが一般的だった中、日本にいながら心臓や腎臓などの移植を実現できるのは大きな一歩です。
臓器提供をいかに増やすかの試みも
日本臓器移植ネットワークでは、いかに臓器提供の数を増やすかに頭を悩ませています。2021年の段階で100万人あたりの臓器提供者数は0.62しかいませんでした。生前に臓器提供の意思を示さないといけないのが大きなハードルになっていると言われますが、同じシステムの韓国で8.56、ドイツで11.22とその数は歴然。
そもそも脳死はあくまでも脳としての機能が停止しただけで心臓は動いている状態。果たして脳死を一般的な死と受け入れていいのだろうかという倫理的な問題が大きいようです。この臓器提供をいかに増やしていくか、これも日本臓器移植ネットワークに委ねられています。
一方で臓器移植によって救われた命が数多いのも事実であり、臓器移植さえあれば救えた命も数多かったはずという無念もそれだけあったわけです。これこそが小紫芳夫さんが臓器移植に関心を持ったきっかけと言えます。
小紫芳夫はなぜ臓器移植に力を入れたのか

小紫芳夫さんが臓器移植に力を入れた理由、それは小紫芳夫さんの娘さんが2人も腎不全で若くしてこの世を去ってしまったことがきっかけとなっています。
家族みんなで行ってきた啓発活動から
小紫芳夫さんには、現在は横浜倉庫の社長を務める息子などがいますが、他にも娘さんがいました。そのうち、2人が腎不全をきっかけにこの世を去ります。もしも腎臓移植が日本で当たり前にあれば娘たちは救えたかもしれないという思いが、啓発活動につながっていきます。
腎臓移植の啓発活動は家族が一丸となって資料などを封筒に入れて切手を貼るなど、家族の無念を何としてでも社会につなげていこうと必死に行ってきました。1973年に立ち上がった腎臓移植普及会は、1995年に日本腎臓移植ネットワークとなり、1997年に日本臓器移植ネットワークへつながっていきます。
小紫芳夫さんのマンパワーがなければ発展はしなかったであろう日本臓器移植ネットワーク。この間、行政の介入など様々なことが噂されてきた中でそれを突っぱねてきた小紫芳夫さん。すべては娘さんの死を無駄にしないという強い気持ちから始まっています。
横浜倉庫の社長でもあった小紫芳夫

小紫芳夫さんは横浜倉庫の社長として長い間、横浜倉庫をけん引してきました。現在は小紫芳夫さんの息子さんが引き継いでいますが、それまでは小紫芳夫さんが個の力で成長させてきたといっても過言ではありません。
横浜倉庫は埋立事業を行ってきた父の鈴江繁一さんが取締役を務めていた会社であり、鈴江繁一さんがこの世を去ったことで人事が活発に展開されて小紫芳夫さんが代表取締役社長を務めることになります。
馬主側のお偉いさん
また小紫芳夫さんは東京馬主協会や日本馬主協会連合会の会長を務めてきた人物です。これらの職は小紫芳夫さんの父である鈴江繁一さんも務めていたほか、東京馬主協会に関しては田中角栄氏も会長を務めたことで知られています。
小紫芳夫さんが東京馬主協会の会長になったのは1983年の事。この直後から競馬会はグレード制の導入や距離体系の整備など現代の競馬に通じる改革を展開していきます。東京馬主協会はそれを見守りつつも、指摘するところは指摘するような存在になります。
小紫芳夫の著書は?

小紫芳夫さんには著書が何冊か存在します。日本臓器移植ネットワーク関係では「命の架け橋 臓器移植」という本を出しています。娘を失い、家族総出で啓発活動を行ってきた時代から日本臓器移植ネットワークの立ち上げまでの30年を振り返ったほんとなっています。
そして、馬主の立場から書いた「馬主の地位¥~6%奨金の成立ち~」という本も出ています。これら2冊の本はいずれも小紫芳夫さんが真剣に取り組んだ内容であり、社会貢献に一生懸命になりつつも、馬主としてもやるべきことをやってきた様子が伝わってきます。
また「馬主として生きて~日本競馬の栞~」という本も。本にまとめることで後世にその歴史を語り継ぐことができます。現状では再版などはなされていませんが、電子書籍の形で出版できれば多くの人が読む可能性もあります。
まとめ

日本臓器移植ネットワークの前会長である小紫芳夫さんのここまでの功績は大きく、世間一般にはあまり広まっていないながらも間違いなく臓器移植の歴史などにその名前は深く刻まれていることでしょう。娘さんが亡くなり、その無念を晴らすために行ってきたことは実を結んでいます。
もちろん臓器移植に関する課題は山積しており、これに関しては未来の若者などが知恵を出し合って解決するはずですし、それを小紫芳夫さんが望んでいることでしょう。
馬主としても実績馬を出し、馬主を束ねてきた小紫芳夫さん。個人馬主が頑張らなければ廃れてしまうと豪語し、手厚い手当を求めてきた小紫芳夫さんの考えはどこまで尊重されていくのか、そのあたりにも注目していきたいところです。